hiroshima

ジャパンスタディツアー報告書 

―広島

9月17日朝5時。普段より早い時間、会館のあちこちでアラムが鳴きました。留学生、フェリスの日本学生たち、そして海外交流課先生たち、校長先生までが一緒に行く「ジャパンスタディツアー」。いよいよ出発でした。

最初に到着した所は広島。日本の学生なら、学生の時代一回くらいは必ず、行かなくてはいけないといわれるその都市には、私が想像したより残酷な歴史が今でも残り続いていました。まず、平和記念公園と原爆ドームで高橋先生の説明を受けました。先生は原爆の当時、6歳で原爆が落ちた所から、遠いところにいて被爆はしていなかったです。先生が当時の状況を現場で生々しく伝えてくれ、私はまるでその時、その場にいた気がしました。私のすぐ横には閃光で皮膚に火傷を負って、水を探して歩いている人がいました。そして、やっと着いた川で後ろから来ていた人たちに抑えて沈んでいた人たちが目の前に見えました。そのあと、広島平和記念資料館での資料は先生が説明してくれた内容が実際、証拠としてありました。その日、石に彫り付けいた峠三吉さんの詩「ちちをかえせ、ははをかえせ、こどもをかえせ、としよりをかえせ、わたしをかえせ、わたしのかかわりがあるひとをかえせ」を読んで、誰を恨んでも何を変わらない状況でいた被爆者たちのうっ憤が感じれました。

次の日、私たちは広島東照宮、広島赤十字原爆病院、戦闘機発令基地などを訪問しました。原爆の当時、自分も被爆した医者が劣悪な狭い病院で、治療を受けても生きられない人々を朝から夜まで、治療をしたと聞きました。由来なかった原爆の被害の治療方法を知らず、悩んだ医者の心情を察することが出来ました。そして、戦闘機発令基地での説明によると、アメリカ軍はなるべく被害者を多く作るため、原爆前、戦闘機を送り、市民が戦闘機発令警報を聞いて中から出るように誘導をしたことを聞いて、人間がどこまで、残忍なものなのか怖かったです。さらに原爆は非常に緻密な計画だったと言うことを分かるようになりました。

広島での二日間。無数の無罪の市民がどう死んだか、そしてその中、私の韓国人の先祖がどんな状況にいたのか、衝撃的な情報を聞いて、見て、そして感じました。その悲惨な原爆の歴史をみながら、多くの人たちがなぜ今でもずっと平和を叫んでいるかを分かりました。私にとっては若干あいまいな概念だっだ「平和」。それは二度と残酷な歴史が起こらない時代を願う人たちの念願が含まれている言葉じゃないかと思います。